急性運動器疾患で最も私たちが診る機会の多いものは何と言っても「ぎっくり腰」でしょう。ぎっくり腰の患者さんを診た事が無いなんていう鍼灸院は1軒もないというくらい、来院頻度が高い症状です。ところで、日本鍼灸師会では、年に一度、臨床研(臨床研修会)というものが開かれていました。受講者は、3日間みっちりと各種運動器疾患の講義を受けます。ここでは、鍼灸がもっとも効果を発揮する様々な疾患群を、頚・上肢、肩関節、腰・下肢、膝関節に特化して、会員鍼灸師にレクチャーしているのです。これらの領域の疾患は、しっかりと理解しさえすれば、かなり正確な病態把握ができ、それに伴って非常に有効性の高い鍼灸治療を行なえるようになるのです。
その中で私は肩関節疾患を専門に講師を務めていました。例えば肩について述べてみます、肩の痛みといっても様々ありますが、急に腕が上がらなくなった時、一般の人はもちろん、専門家でさえ安易に「あ、五十肩(または四十肩)ですね」と認識される場合が、しばしばあります。しかし病態は実は複雑です。このようにいろんな痛み、関節障害についても、きtんとした病態把握とそれに相応しい治療が必要です。若い人からご高齢の方まで、とてもたくさん(おそらく数千人)の方が今までに来院されています。
今までに、痛みなどで来院された疾患を上から順に見ていきますと、偏頭痛、筋緊張性頭痛、側頭・後頭神経痛など、顎関節症、非定型顔面痛、頚椎椎間板ヘルニア、頚椎症、頚腕症候群(肋鎖症候群、斜角筋症候群、胸郭出口症候群など)、肩関節痛(下記参照)、手根管症候群、背部痛(肋間神経痛などを含む)腰痛(腰椎椎間板ヘルニア、筋筋膜性腰痛、後部椎間関節性腰痛など)、坐骨神経痛、梨状筋症候群、鵞足炎(がそくえん)、ハムストリング断裂、頻繁に起こるこむらがえり、足関節捻挫、足底腱膜炎、モルトン病などです。単純な捻挫などは、整形外科や接骨院に行かれた方が良い場合、適切なところを紹介することもあります。
<肩関節疾患について>
1、腱板炎
急に肩が上がらなくなった時、そのほとんどは五十肩ではありません。五十肩がどういうものであるかは、後で詳述するとして、前述のように起こった状況で、もっとも多い病態は腱板炎です。棘上筋の外側の方が、上腕骨頭と肩甲骨の肩峰に挟まれて損傷(または炎症)を起こし、腕を上げることが出来なくなるのです。その腱板は、別名ローテーターカフと呼ばれ、腕が上がる時に、上腕骨頭を引き下げつつ回転させる事が主な役割です。なので、この別名がついています。この腱板は、棘上筋、棘下筋、肩甲下筋、小円筋の腱が合わさって板のようになっている事から、腱板と言われています。その腱板がどのようにして損傷(または炎症)を起こし、腕が上がらなくなるのかは、実際にお越しになった方には丁寧に図示してご説明しますと、非常によく理解して頂けます。面白い事に、ほんの一週間の間に、この腱板炎の新患さんが立て続けに3人お見えになったことがありました。きちんとした検査、病態把握、それに対応した治療で、3人とも揃って3回の治療で終了しました。いや、3回目の来院ではかなり良好になっていたので、実際には2回の治療で足りていたかもしれません。このように肩が痛くて上がらなくなったとき、早期に治療すると良いのですが、この状態を放置しておくと、徐々に悪化して行きます。それに関しては、後述します。要は、「痛みを伴って肩が上がらなくなった時は、速やかに適切な治療を受ける事」が大切です。
2、石灰沈着性腱板炎
組織に炎症が起こると、時にその熱を取るための生体防御として、無機塩(その形状から俗に石灰と呼ぶ)が沈着する事があります。腱板に石灰が沈着して、それが腱板の内部に潜んでいる時はあまり自覚はないのですが、それが腱の外側に流出した時には、運動制限を伴って強烈に痛み始める時があります。これが石灰沈着性腱板炎です。石灰は、溶解度は低いものの、徐々に回りに吸収されて行きますので、きちんとケアをしさえすれば、症状は収束して行きます。が、腱板炎や次に述べる上腕二頭筋長頭腱炎よりも時間はかかりますが、鍼灸治療はその吸収を促進し、治癒までの時間を短縮するでしょう。
3、上腕二頭筋長頭腱炎
さて、腱板炎のところに書いた3人の方のうち、お一人は腱板炎に加えて、上腕二頭筋長頭腱炎を併発されていました。これは、上腕二頭筋の二つの頭のうちの一つ、長頭腱が、上腕骨の結節間溝という細い溝の中で炎症を起こす疾患です。重いものを前で持ち続けたり、それを上げたり降ろしたりし続けると起こりやすくなる炎症です。上肢に負荷をかけて前に上げてもらったりすると痛みを再現できるので良く分かります。これも、腱板炎同様、早期に適切な治療を受ける事で、早く良くなりますし、しかし放っておくと、悪化してしまう可能性もあります。この方は、二カ所を同時に傷めておられたことになりますが、正しい病態把握と適切な治療により、3回の治療で快癒されました。
4、肩峰下滑液包炎
では、腱板炎や上腕二頭筋長頭腱炎を放置しておくとどのように悪化して行くのでしょう。これらの炎症が、滑液包というものに波及すると、今までになかったような自発痛夜間痛が始まります。この多くは腱板炎からの二次的な疾患として認識されます。しかしそれまで「肩が上がらない」、「動かしたら痛い」という状況が一転、「じっとしていても疼く」とか「痛くて寝ていられない」という全く違う症状に変化します。そしてしばしば肩は腫れて熱を持つようになります。こうなると1や3よりも緩解に時間を要することは、明らかです。
5、五十肩(四十肩)
4を経て、なお症状が進行した時に、炎症は関節包に及びます。肩の関節はその動く範囲が広いため、関節包には非常にゆとりがあります。その関節包に炎症が及ぶと、多くの場合は肩のあらゆる方向の運動が痛みを伴うようになります。正確にはこの状態を五十肩(または四十肩)と呼びます。そして炎症が徐々に退いてきて痛みがなくなると、次は「痛まないのに動かない」という状態に移行します。これは炎症が関節包に拘縮という状態を引き起こしたためです。この一連の期間は非常に長く、時に2、3年に及びます。その間に、上がらない肩関節の周囲の筋肉は萎縮してしまいます。この状態で来院された方を何人か見せて頂きましたが、本当に筋力まで低下していました。
以上、大まかでしたが肩関節疾患で、よく見られるものの特徴を上げてみました。大切なのは何と言っても「初期消火」です。「そのうち治るだろう」と思っていると、進行した時には大変な事態が待ち受けています。どうか充分にご注意下さい。
(注・ここではリウマチなど、肩関節周囲が原発ではない疾患の説明は割愛しています。私たちが患者さんに向かう時、そういった全身性の疾患との鑑別から始まり、次に正確な病態把握を行なうように務めています。)
さてそれ以外に、私たちの所に来院される疾患では、やはり頚上肢の痛み、腰下肢の痛み、膝の痛みを訴えられる方が、非常に沢山おられます。それらについても、適切な病態把握と説明、そして出来るだけ効果的な治療を心がけています。
ところで、急性運動期疾患と切っても切り離せないものにスポーツ傷害があります。当院でも他の鍼灸院同様、スポーツ選手が何人も来院されています。スポーツ選手のいわゆるスポーツ傷害は、私たちが日常で起こしてしまう傷害と原因が異なる場合が多くあります。だからここで同じカテゴリーで論じてしまうには無理がありますが、その是非論には敢えて触れずに話を進めます。
整形外科的な傷害の起こるメカニズムは大きく3つに分類されます。
- 正常な機序への異常なストレス
- 異常な機序への正常なストレス
- ストレスの受け入れ準備をしていない正常な機序への正常なストレス
(以上参考:Rene Calliet 著の一連の書物)
1. の例としては、筋力を上回る負荷がかかった場合ですね。急に思いっきり力を出してしまった、とか、持てないくらいの重い荷物を持ち上げようとした、、みたいな。
2. の例としては、疲労した組織へ長時間かかるストレス。長時間椅子に座っていて疲れた腰で、ふと物をもったら腰に痛みが、、みたいな感じです。
3. の例としては、ムチウチですね。後ろからちょこんと車に当たられても、身構えていればどうって事ないですが、急に来るから頸椎に不自然な動きを起こしてしまい、傷害を引き起こしてしまいます。
スポーツ傷害は多くの場合、非常に大きな外力によって引き起こされ、かつ上記のどのケースにも当てはまる場合があります。そして、最も日常の傷害と異なるのは、そのスポーツ独特の傷害部位や機序があるということです。例えばテニス肘などはその典型です。以前、フェンシングの選手の治療をしていたときに、私はフェンシングをよく知らなかったので、その方にビデオを借りて、特にその方のプレイスタイルを見て、傷害を想定し治療させて頂きました。というようにスポーツ選手の治療をおこなうときにはそのスポーツを知っている必要があります。そのスポーツ独特の動きを知らずして治療や予防を行うことは不可能です。
もう一つ、これは治療者泣かせなのですが、スポーツ選手の方はよく、「○月○日の試合は重要だからそれまでに試合に出られるようにして欲しい。」と治癒期限を定められる場合があります。スタッフ紹介のページにあるラグビーの選手も、痛みでジョギングさえ出来ないくらいの肋間神経痛を、約10日後の試合までに治してほしい、と言われました。「これならいける」と思っていても、心の中では結構「ひやひや」するものです(あ、こんなことここで書いたらマズイかな?)。
<運動器疾患 症例>
運動器疾患は、鍼灸治療がもっとも得意とするところですが、ただ「はり」をすれば良い、のではなく、まずはその痛みがどのようにして起こっているのか、その理解が最も大切です。当院でも、運動器疾患の新患数は他の領域よりも多いのですが、それらの中で少し入り組んだ、または印象的であった症例を下記にあげてみます。