日々の診療の様子をお伝えします
9月も中旬に入り、玄関に植えている朝顔がようやく咲きました。
これは不妊鍼灸ネットワークで配布されたものですが、
知る人ぞ知る「原坊の朝顔」です。
もう咲かないかなと思っていましたが、
さすがに短日植物、日が短くなってようやく咲きました。
とは言っても、会員鍼灸院で一番遅かったのです。
北海道、宮城、福島、東京、群馬、大阪、山口、鹿児島。
全部より遅かった。
何故??
おそらく当院の前にある街灯の明かりが強すぎたと思われます。
その根拠として、街灯から隠れたところにつるを伸ばした苗からしか花芽が出来ていません。
この「原坊の朝顔」は第27代だそうです。
脈々と受け継がれる生命の連鎖。
皆さんにも幸福が訪れますように。
草津分院が開設してから2ヶ月半が経過しました。
当初は1診体制(医療機器は1室のみ)で十分と考えていましたが、
例えば19日の日曜日は朝7時台から夜9時まで、
寸分の空きもなく予約が埋まる状況になりました。
そこで、少しでもご希望の時間に予約を取って頂けるように、
9月から二診体制となります。
治療室2つに同等の医療機器を備えます。
明日は1個目の医療機器の搬入です。
お盆休みで、交通渋滞が予想されるので、
久々に電車で草津へ行こうと思っています。
ハンカチと扇子は忘れないように、、、。笑
本日の京都新聞夕刊で、上山春平先生がご逝去された事を知った。夕刊トップ記事及び10面関連記事という大きな扱いで報じられた。
http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20120806000081
他紙でもそれぞれに報じられたようだ。
先生からは、先生が鍼のファンで当院に通院されていた事を人に知られても良いと、生前にご許可を頂いていたので、ここで初めてその想い出を綴りたいと思う。
先生が鍼に対してひとかたならぬご関心を持たれていたのは、「日本と東洋文化(新潮社刊)梅原猛氏共著」において、東洋分化に於ける日本の存在意義を様々な角度から検証された書物で、第1章に鍼灸を据えられた事からも伺い知る事が出来よう。(その部分をわざわざコピーして私に下さった(写真参照)。)
さて今から9年前、先生の来院は、先生のお嬢様が当院を調べて上山先生に勧められたことがきっかけであった。初回が真夏であったので、先生はTシャツに半パンという、およそ京大の名誉教授らしからぬ姿で来院された。治療が終わるといつも「タクシーを呼んでもらえますか」と言われ、車が来るまで待合で書物を読まれていた姿が思いだされる。
浅学な私は、この方がそういうすごい方だとは気付かず(高校の恩師に話すと「中村のところはすごい人が来られているんだな」と言われた通り、実はスゴい人なんだとその時改めて知らされた)、非常に気さくなそのお人柄が尚更権威を感じさせず、会話が弾んだ事を覚えている。
ある日、先生が日本古代史のお話をされた時に、六国史の話題に及んだ。私が少しばかりの知識を脳みその引き出しより引っ張りだすと、「あなたはどうして六国史の事をしっているの?」と問われ、私が歴史が好きだった事を話すと更に話が弾み、日本における六国史編纂の経緯や、日本書紀と古事記の違いなど、私に教えて下さった。想い出を風化させないために書くと、その話は更に中国と日本における皇帝と天皇制の違いや、中国と日本の時代の変化が如何に社会的に異なる意義を持つか、といった事まで教えて下さった。
そして、先生がもうひとつのライフワークにされていた空海の話が展開した。私は実は空海のファンであることを話すと、先生はたいそう喜んで下さり、
「ではこれを差し上げます」
とご自身の著作「空海」をプレゼントして下さった。
私の治療室の前に置いてある色紙に「中寿感興詩」というものが書いてある。
これは先生が下さったその本に、空海が40才の時に詠んだ詩が書かれていて、その時に私が偶然40才であったので、それを書き写して置いてあるものだ。
孔子は「四十にして惑わず」と言った。空海は更にそれより精神的に高みに達していたのではないかと伺える素晴らしい詩である。私の四十代は間もなく終わろうとしているが、この詩に支えられたところが非常に大きいと言える。そしてそれを教えて下さった上山先生なくして、私のこの10年を語る事は出来ない。
通院及び往診回数は3年余で約200回。その治療の度に、先生の様々なご研究のお話をお伺いした。私にとって、なんという贅沢な治療だったのだろう。超一級の講義を、マンツーマンで、しかもお金を頂いて受けられるなど、これほどの贅沢がどこにあるだろうか。
先生のご自宅は、ある皇族の古墳の前にあり、その古墳の明治以降の扱われ方の疑義についても教えて下さった。
そして先生のお部屋には膨大な書物。一体何冊あるのか想像も付かないほどの書物(多分万冊単位の数だろうと思う)に囲まれて、晩年も執筆活動をされていたお姿を今思いだす。
他にも2冊の書物と、冬になるといつもミカンを1箱下さった。
最後にお会いしたのは、平成18年夏。
私の人生で最も大きな影響を与えて下さったお一人に違いない。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
合掌