エッセイ
特別な思い出と共にここでは、開業以来、いや記憶にある限りの様々な思いの中で、
自分の人格の構成要素として、重要な意義をもつものを中心に書き留めることにする。
また、それぞれの文章は常に未完成の形とし、加筆訂正してゆく。
中には日記に書かれた内容を再編したものもある。徳一と一徳
まず、私に「一徳(かずのり)」と命名してくれた父に感謝したい。小学生の頃に定まった「いっとく」というあだ名は、一部友人の間でいまだに続いているし、高校生の頃は「家はお寺?」などとからかわれもした。だが結構、この名前は気に入っていた。だが、平安時代の僧「徳一」の存在を知った時に、本当にすばらしい名前をもらったと、大感激した。
その存在を話す前に、私のもっとも尊敬する人物の一人である空海について触れねばならない。空海は「弘法さん」として今も民間信仰を集める時代を超えたスーパースターである。若くしてその才能を認められながら大学を辞め放浪の旅に出たかと思うと、遣唐使に加わり、日本に真言密教を伝えた。朝廷の加護のもと唐へ渡った最澄とは対照的に、一介の僧でありながら、当時の仏教界に一大センセーションを巻き起こした。当時、腐敗を極めた奈良仏教からの脱却は、京都での仏教界の再構築が成功するか否かにかかっており、それは最澄一人ではなしえなかったと思われる。最澄でさえ、高野山で空海の結縁灌頂(けちえんかんじょう)を受けている、つまり空海の弟子となったのである。その空海と最澄の様々なやりとりは上山春平先生の著書「空海」をごらん頂くと、まるでドラマのように面白く読めるので、興味のある方はご一読頂きたい。さて、その空海と最澄の陰に隠れてあまり有名ではないが、同じ時代に徳一という僧侶がいたことは非常に重要な意味を持つ。私がこの僧侶の存在を知ったときは鳥肌が立ったくらい興奮したものだ。「空と海」などというでっかい名前もすごいが、「徳が第一」という名前もでかい。そして私は「第一の徳」という名前を頂いた。一頃は、このでかすぎる名前に、密かに悩んだりもした。徳とはなんぞや、という命題は、常に私の心をいため続けた。常に我が身を斬りつけようとする「名前という刃」に真っ向から立ち向かい、ようやく、なにかしら光明のようなものを見いだしたのは平安時代の僧侶「徳一」との出会いに他ならない。名誉栄達を欲せず、しっかりと自分の信念に従って行動した徳一こそが、我が心の師と仰ぐ人物となる。
徳一は奈良時代に南都六宗のひとつ法相宗を学び、その後807年に今の福島県磐梯町に慧日寺を開いた。最澄が805年に天台宗を開き、空海が806年に真言宗を開いたわけだから、この3年間は開山ラッシュとでも言えるのが非常に面白い。特に東北地方においては、平泉の金色堂が1124年に出来ているわけだから、その三百年以上前にすでに東北で仏教文化の萌芽し始めたことは特筆に値する。後世において「才識俊秀当時比なし」とまで言わしめた徳一が、仏教界と訣別し、自らの修行と民衆教化の為に会津まで下ったというのは、まことに痛快な生き様ではあるまいか。その優秀さは、最澄と論争を繰り広げたり、空海に「徳一菩薩」とまで言わしめたことでもうかがい知れよう。この論争(三一権実論争)により最澄は「法華宗句」を著した。かたや徳一に真言宗の布教の助力を依頼した空海は、逆に徳一より質問状を受けたが、最澄の例をみて、空海は論争を避けたとされる。その質問状は教義批判のテキストとして、その後、真言宗の中で数百年間も使用されることになる。空海、最澄をしてそれくらいの窮地に追い込む徳一こそが、(当時としては)辺境の地(であった会津)で、まさに一隅を照らす存在であっただろう。会津は徳一が誘致した様々な仏教関連の文化によって花開くことになるからである。しがらみから離れ、誰におもねることもなく、自らの心の赴くままに、しかし確固たる信念をもって活動した。それが、私の心を打ってやまない。いつか自分の生き様もこのようにありたいと思う。
鍼灸への誘(いざな)い
私は、中学時代に警察官になりたくて、そのためには法律を勉強したくて、大学は法学部と決め込んでいた。高校生になると、警察官ではなくて司法試験を目指したくなって、とりあえず司法試験合格者の出ている大学ならどこでもいいやと、京都産業大学を選んだ。進路の先生は「立命館を受けなさい」としきりに勧めてくれたが、どうもこっちのほうがいいや(具体的理由もなく雰囲気で)と、京産の法学部一個だけ受験して、そのまま安直に入ってしまった。その時、確かに入試は全く難しくなかったと思う。英語の試験などはものの30分で終了してしまい、残りはひたすら寝たような記憶がある。しかし、はっきり言って受験、大学をなめていた。出身大学が、その後の人生にこれほど大きな影響を持とうとは、つゆぞ知らなかった。今から思えば、もう少し進路を真剣に考え、一生懸命やっておけば良かったとも思える。ま、今更言っても仕方ないし、今の自分が良ければそれまでの自分は全て肯定されるから、それはそれで良いのけれども。
さて、そんな私に転機が訪れたのは、一回生の夏である。鍼灸師である父親からしつこいほど「鍼灸の学校へ行け」と言われ続けた。自分のやりたいことと違うし、本当に悩んだ。しかし、結局その勧めに根負けして、受験してしまった。そして、法学部と鍼灸学校のW(ダブル)スクールで、4回生の時に鍼灸師の資格を取得し、「法学士兼鍼灸師」という支離滅裂なダブル取得となる。
そんな動機だから、この職業に就いたのは、純粋に人のために役立ちたいとか、悩める人を治したいとか、そういう思いからでは無い、のである。しかし、昨今、医療制度や科学の抱える様々な問題を見聞きして、かつ自分が行っている仕事を考えると、これほど面白い、すばらしい仕事は無いのではないか、と思えるようになっている。本当にこの仕事が大好きになっている。そして、この分野に無限の可能性を感じる。誰がためにハリをする?
ある友人(医師)が私にこう尋ねた。「おぼれている子供が目の前にいて、貴方は何故その子供を助けるのですか」と。私は即座に、「子供がかわいそうだから」と答えた。しかし、その友人は違う答えを持っていた。「子供がおぼれるのを見て、放っておこうとする自分を見るのがいやだから」と言う。政治家が誰のために政治を行うのか。人のため?自分のため?これは必ずしも、前者が善で後者が悪である、といった完全な対応を示すものではない。人のために行っているはずの政治は、その大義名分のもと、様々な悪政を生み出してきた。戦争のほとんどがそうであるように。しかし、自分のために行う場合でも、「人が喜んでくれると自分も嬉しいから」は目的は自己中心であっても、結果として他人の幸福を伴うから善である。いや、むしろこちらの方が大多数を占めるかも知れない。そう考えると、いったい誰のためにハリをしているのだろうか。患者さんが予定通りに回復基調に乗ると、これほどの達成感は無い。喜ばしい限りである。なんだ、結局自分が喜んでいるんじゃないか、とも思える。しかし、仕事が常に自己犠牲の上に成り立っては継続はし得ない。いろいろな事柄を自分の事のように喜べることが、質の高い仕事への原動力となることは明らかだ。やっぱり患者さんと共に喜べるって、とても幸せなことだ。
鍼灸医学の教育上の特殊性
昨今、鍼灸師を養成する各種学校が増えてきている。私の所属する日本鍼灸師会の会員は約七千名と聞く。他にも団体があるが、開業鍼灸師は全部合わせても、せいぜい二万を少し出るくらいではなかろうか。しかしながら、今になって毎年数千人の鍼灸師が誕生している。京都大阪だけで、数年後には毎年千五百人の鍼灸師が誕生すると聞く。
しかしながら、今まででさえも、卒業して資格を持った鍼灸師が、実際に開業して軌道に乗せることが出来るのは、5%とも言われている。その多くは、他の職業に就いている、もしくは病院などでリハビリの補助のような事をしている。もう少し苦言を呈するなら、鍼灸だけではやっていけないから柔道整復師の資格を取り、鍼灸なんだか接骨なんだかわからなくなってしまう。つまり、鍼灸師というものは、その資格を取りさえすれば即、将来が約束されるなどということはあり得ないのである。一般的にたやすく取れる資格ほど、多くの人が取得し、かつ市場に飽和状態になる。鍼灸の資格もしかり。我々が十倍以上の競争率で入学した頃は過去の話となり、いまや無試験状態で入れるほど、学校が増えすぎている。
これほどまでに鍼灸師が増えれば、さらに食っていけなくなるのは、需要と供給のバランスで明らかだ。需要供給曲線の交わる点が望ましい。そういう意味で、鍼灸師は、明らかに供給過剰。いや、実は供給されていない。大量に生産されて、市場に出る前に、倉庫に積み上げられ、かつその量は増すばかりの状態である。
方や、全国民で鍼灸治療を受けたことがあるのは、約7%と言われている。これは、鍼灸師の開業成功率と近い数字となる。では、何故「鍼灸師が余っている」のか。どうして開業しても軌道に乗らないのか。一頃(今も)、鍼灸や東洋医学に科学の光を当てようと、各学校が一生懸命になった(ている)。確かに東洋医学を科学的に説明できれば、それは説得力を持つことになる。しかし、あまりに細分化された現代科学よろしく東洋医学まで同じ手法で研究しようとすると、身体をパーツ毎に切り離したり、診断と治療を切り離したり、東洋医学の特性を無視した研究に陥ってしまう。また、一つの病気に対して専門的に研究したりするのも確かに必要なことだろう。それらに何かをいおうとするのではない。しかし、研究者志望でないなら、学生時代はそういった細分化された研究よりも、総合力を身につけて欲しいと願う。
西洋医学を含む細分化された現代科学(?)では、例えば医学では、脳外科の権威で○○大学教授となれば、その道のスペシャリストである。その手術にかんして卓越した技能を持つ場合も多い。そして、その先生は、その分野の患者さんを診ればよい。しかし、東洋医学において、身体をパーツ毎、テーマ毎に切り離すことは、研究上は自然な成り行き「かもしれない」が、臨床家としては疑問の残る学習法である。細分化された研究を学生にさせても、その分野だけ突出した知識を有するのみで、日常臨床(どんな訴えの患者さんが来られるかわからない)では、まったく使い物にならない。つまり、西洋医学では、優秀な臨床研究者≒優秀な臨床技術保持者が成り立つが、東洋医学では、その≒が成り立たないというパラドクスが存在する。例えば、胃潰瘍の鍼に関する研究をいくら積み重ねても、鍼灸院で胃潰瘍の患者さんは10人に一人も存在しないのである。
西洋医学でも、今、研修制度は変革の時を迎え、大卒後、一カ所に医局員として定着するのではなく、外科もしくは内科などのおおまかな選択によって、各科研修を行っている(スーパーローテーション)。これは、専門化細分化した研修の前に、ある程度総論的な研修を行うことにより、視野の広い診療が出来るようになるのではないかと、期待している。西洋医学でさえ、そういった流れであるのに、元来そういう性質を備えかつそういう資質が不可欠である鍼灸師の育成に、細分化された研究課題のみを与え続けることは必要なのだろうか。臨床家を目指す方は、熟考の上、ここで選択を誤らないで頂きたいと願うばかりである。
この業界でよく「医師と対等に話が出来る鍼灸師に」という言葉を聞く。確かに、そういったレベルを目指すのはある意味結構なことかも知れない。しかし、言葉だけが空回りしている。内容が全く伴っていないことにすぐに気づく。大体、鍼灸学校の入試科目に、数学が入っているのを見たことがない。英語もしかり。数学とは、数字と記号を使って理論的に物事を処理する最高の訓練であり、それを全学校が入試科目として採用していない現状に憤りさえ感じる。そういうことだから医療の中で軽んじられるのである。我々が普通に日本語を話すときに単語を覚えているように、学校での勉強は時間さえかければ誰でも(小学生にでも)出来るような単純記憶の勉強ばかりに費やされることで、思考力は完全に置きさられた授業が延々と展開する。まるで国旗と国名を一致させるような記憶の連続で。確かに覚えなければならないことは山ほどあるわけで、致し方ないかも知れない。だが、それで国試に受かれば一応「先生」となるわけで、プライドだけが育ってしまう。しかし、開業できない、開業しても鍼灸だけでは食っていけない現実が目の前に突如として現れる。気づいても時すでに遅し。鍼灸師がリハビリ補助やマッサージをして、鍼灸から2、3年も離れてしまうと、もう勘が鈍ってしまい、怖くて鍼など刺せたものではない。いや、むしろそういう状況でいきなり開業などして患者さんに鍼をするのは、その患者さんにとってどれほどの恐怖か。
昔は鍼灸院へは弟子入りして学んだが、今は使い物にならなくても、いっぱしの給与を出さなければならない。そして、新卒鍼灸師の受け皿がどんどん減少してゆく。私自身は、在学中からどんどん自分で友達やそのご家族の治療をさせて頂いたが、それでも、どんな難病患者さんが来られても平常心で治療を出来るようになったのは、7、8年はかかった気がする。つまり鍼灸師として戦力となるにはそれくらいかかるのに、そんなに長い間、新卒の鍼灸師にまともな給与を払い続けようというごきとくな鍼灸院はほとんど無いであろう。よほどはやっていなくてはそんな余裕はないはず。
ある学校は「就職率100%」を謳う。しかし、ほとんどが鍼灸師としてではなく、病院でのスイッチマンやリハビリ補助。方やある学校では就職率は低い。しかし、「しんどくても鍼灸院へ就職しなさい。そのほうが後々に自分の糧になる」と指導。さて、どちらがよいか。臨床家鍼灸師として生きてゆくなら後者に決まっている。 細分化された研究は、後にいくらでも修得できる。総論無くして各論なし、であろう。
生物の不思議(その1)
ヒトにおける卵原細胞から卵子ができる過程に関して、私は大きな誤解をしていた。それは、女性の排卵は完全な卵細胞になってから排卵されるとばかり思っていたこと。これはおそらく読者の皆様も同様と思うので(勝手に思ってるだけかも)、少し述べさせていただきたい。
一次卵母細胞から減数第一及び第二分裂を経て卵細胞となって排卵・受精するのでは「断じてない」とゆうことである。ちょっと力みすぎ(^ ^;) では二回の分裂のどの時期に受精が起こるか?これは種で異なるので、ヒトを例にあげることにする。(まあ、虫とかウニとかを例にしたってどーしよーもないから)
まず女性がまだ胎児の段階で、卵原細胞または一次卵母細胞までが作られて(これはすごく意外だった)、ここで分裂が、なんと思春期までストップしているのである。(長いお休みだねー)そして、思春期に減数第二分裂中期まで進む。ここで再びストップ!そして分裂は終わってないのに、この状態で不安一杯の旅立ち(排卵)となる。そして、輸卵管でめでたく精子が侵入すると、それが刺激となり、ここから減数第二分裂後期と受精(核の融合)が起こる。
一般に、受精とは次の4つのプロセスを言う。
1・精子と卵子が接近
2・精子が卵子に接触
3・精子が卵子に侵入
4・精核と卵核の融合
また、それぞれの段階に応じて、いろんな相互作用がある。(説明は割愛)「む〜、なるほど。」と納得。
しかし、ここで着目しなければならないのは、分割が途中で停止しているという状態。細胞が下等であればあるほど、細胞周期によって単純に計算される分裂に近い状態で細胞分裂が起こる。栄養と空間など、適当な環境さえ整っていれば、細胞はその種の繁栄の戦略とによって増殖するのである。それが卵原細胞のように途中で停止させるには非常に複雑なプログラムとエネルギーを要する。さて、少し余談になる。昨年(2003年)、阪大医学部の友人とサシで飲んでいた。彼は遺伝子治療の研究をしている。そこで細胞分裂の話になった。心筋や神経細胞は、生後(具体的には胎児期後期か)増殖を停止し、しかも、損傷したりしても通常の細胞のように増殖(修復)を行わない。つまり、いかなる環境において損傷を受けても、それらの細胞は基本的には「分裂再開のプログラムを発動しない」のだ。この性質を利用して、心筋の細胞よりRNAを取り出して、ガン細胞に注入する、というのである。ここで注目せねばならないのは「DNAではない」という点。
我々が遺伝子治療というと、細胞のDNAを他の細胞のDNAに部分的に置き換える、といったことを想像しがちである。しかし、例えばガンの遺伝子治療の実際は、ある特徴的かつ期待可能な効果を持った細胞のDNAの転写されたmRNAを細胞に注入し、その指令によって、悪い宿主細胞の指令とは異なった指令を与えることにより、違うタンパク合成をさせ、細胞分裂を停止させる、ということであるらしい。ただ、問題は、全てのガン細胞に注入(取り込み)できるとは限らず、その割合を上げることが非常に難しいらしい。つまり、全てのガン細胞に入ってくれればガンの増殖は100%抑止できるが、それが7割なら残った3割は増殖を続けることになる。それが当面の課題だそうだ。滋賀医大学士編入試験受験記2000年版(これは青春の思い出として、そして、その後にもっとも大きな影響を残した試験のひとつとして、ここに留めておく。)
その日(2000年7月25日)は、朝からしとしとと小雨がぱらついていた。私はいつものように朝食をとり、いつものようにトイレへ行き、新聞を読んだ。違うことと言えば、朝からやけに言葉少ななことぐらいだろうか。そして体中に力がみなぎる感触。「さあっ!!」と一声発して、玄関を出た。 京都駅までバスに乗った。そのあいだ中、阪大の小論文(英語)を読んだ。経験的に、試験前に知らない単語に出くわし、それが試験で出ることがある。最後まで手を抜かないのが私のポリシーである。だから、受験仲間と共に会場へ向かうことを避けたのだ。京都駅から鈍行で約20分。ここでは参考書を開ける人がちらほら見受けられた。「彼らもか…。」自然にテンションが高まるのは、何せ定員が5人だけということにもよる。ココにいるほぼ全員が一次でバイバイとなるんだろうなあ。瀬田駅についてローソンへ入ると、弁当類がもう何もない…。仕方なくパンを3つ買うが、全部生クリーム入りを買ってしまった。ちょっと失敗。滋賀医大行きのバスに乗り込み、やおら生物のまとめを取り出す。ふと気付くと横に立っていた女性と男性がのぞき込んでいる。彼らも受験生なんだ。まあ、いくらでも覗いて下さい、って感じで、知らぬふりで黙々と頭にたたき込む。
試験室は臨床講義室2とかいうところで、そこでは、Hさんと一緒になった。彼女はK大の院生でおそらく最年少だろうが、実力的には相当なモノをもっているんだろう。そして、頭の薄い人、白髪の多い人、やけに中年ぶとりした人(人のこと言えない…)と様々で、普通の受験とは全然雰囲気が違う。試験官入場!!問題配布!!サイは投げられた。我々に明日はあるのか???
まず、1時間目の英語の解答用紙が配られて驚いた。マークシートである。「学士編入でこんなんアリ??」しかし、問題作成時には想像もつかない志願者数。1000人を越えたりすると、単科医大の人手不足で対応しきれるのか?と考えれば、当然の成りゆきかも知れない。試験の注意事項に「シャープペンシル不可、HBの鉛筆に限る」とあったのを思い出した。滋賀医は一般入試でも同様の注意書きがあるが、普通の記述式である。だから気にも止めなかったが、一般入試を知らない人はこの記載を見て「マークシートだ」と予想した人がいるに違いない。マークシートと記述式では、対策の立て方がまるで変わってしまう。のっけから不利のどん底にたたき落とされた。「まいったなあ、マークシート?」と不意に言葉に出てしまう。
そして1時間目の英語の試験に突入した。問題はA4版(だったと思う)で全21ページ。問題文も全て英語で、セクション1〜3に分かれ、基本的な文法知識や、少し生物じみた問題が延々と4〜50問並ぶ。「なーんだセンター試験みたいじゃないか…。難易度はセンターより優しいものも難しいモノも含まれる。「総じて難易度は易〜標準」 そして中〜長文に移る。あれ、変だなあ…。解答用紙の埋まっていく部分と、消化している問題用紙の枚数が、妙に不釣り合いである。「しまった!!時間配分を間違えている。」致命傷である。答えは半分くらい終わっている。時間を半分くらい経過している。なのに問題用紙は3分の2も残っているではないか!!ネジを巻き上げラピッドリーディングに切り替えた。もう、あらん限りの脳細胞を動員して、びゅんびゅん飛ばして読んでいく。200〜300語程度を5分くらいですっ飛ばしていく。もはや免停なみの速度違反である。ただ救われたのが文章の難易度が標準的であったこと。阪大や京府医の後期問題に比べると「易」に感じられた。「10分前です。」試験官の声が響きわたる。さらに脳はヒートアップし、光速の漸近線へと吹っ飛んでいく。ふと前を見ると、視界に入った数人の答案はやはり終わりの方は出来ていない…。「御同輩だ。」しかし、隣の人は全部答案が埋まっている。ショック!!終了間際で最後の方はもうあてずっぽう、、、。どうにでもなれー!!「はい、時間です。鉛筆を置いて下さい。」ふー。
お昼休みに受験仲間と歓談したが、時間内に終わった人はなかった。1人は京大卒進学高校英語教諭経験者、1人は日記を英語で書くというツワモノ。彼らで時間不足なんだから、仕方ない気もする。
結果・完全なラピッドリーディングを要求された試験。日本語を読むようなスピードを要求された。難易度は標準。問題は再現できません。ほとんど忘れた。試験後にカラオケに行って、背景の映像で珊瑚礁が出てきて「おーっ今日の試験問題だー!!」とみんなで騒いでいた。珊瑚礁と熱帯雨林についての生態学的意義の比較に関する文章がありました。そういえば…。てことくらいしか覚えてません。あしからず。(90分でちょうど100問)記述式を予想していたのに、マークシートという現実に完全に意表を突かれた私は、昼休みに勉強する気が起こらず、みんなとうだうだ話をしていた。このHPの「理科のお勉強」にあるように、記述式を予想していたからには結構深い理解度に達したと自己満足にふけっていたが、マークシートなら「いまさらやることは無い」と、正直言って、力が抜けてしまっていた。
予定通りに2時間目の試験が始まった。科目は「生物、生命科学に関連した化学、物理学」という曖昧な科目である。物理は放射線以外はなーんもやらなかったから、いきなり力学とか出て困ってしまった。そして「注射針を皮膚に押しつけたときに皮膚にかかる圧力の立式…。」もう勝手にしてくれって感じ。ただし、嬉しかったのは、物理関連の問題が7〜8問しかなかったこと。問題の内訳は「生物・7割」「生物に関した化学2割」「生物に関した物理少し」「物理少し」ってとこだろうか。
さて、はなっから物理に縁のない私は、「放射線が細胞に影響を及ぼすのはどの様なときか(うろ覚え)」という問題くらいしか分からず、あとの物理問題は出来なくても「まっ、いっかー!」なんてすっごくいい加減にマークしていった。しかし、生物や化学で論述を予想していたので、マークシートのやわい問題では、生物化学はすぐに終わってしまった。時計を見るとまだ50分も余っているではないか。
「トイレに行こう…。」やおら挙手!!「すみませえん…、トイレに…。始まる前にちゃんと行ったんですけどー(これは事実)…。」などと試験官の先生に言い訳しながら退室する。そして「トイレ連行」は部屋の外に待機している女性の先生に引き継がれる。ひえー恥ずかしい…。トイレから出てくると、次の人が連行されてきた。ここでも「御同輩」が…。トイレから戻ってきた私は、何をしようかと考えた挙げ句、「問題持ち帰り不可」だったら「計算用紙に問題をぜーんぶ書き写してもって帰ろう…。」と馬鹿なことを考え、実行に移すことにした。しかし5問くらい写して、はたと思い出したことがある。今までで「出来た!!」と思っていた試験ほど、くだらんケアレスミスを繰り返していたことである。 「かきかた」の時間はおしまい!にして見直し作業に入った。すると、やっぱりミスしていた。マークミス1問、問題の読み違え2問。ふーっ危ない危ない…。その他にも間違いはたくさんあると思うが、それは自分の力量以上の間違いだから、見つけようもない。とにかく全力を出しきって、お・し・ま・い。
結果・知識とちょっとした思いつきで解ける問題がほとんど。難易度は標準。しかし、高校生物と化学の範囲からは(もちろんのことだが)完全に逸脱している。そして広範囲からの出題。広く浅くって感じかなあ…。計算用紙はご丁寧に上質紙で5枚も下さったが、1枚も使わなかった。物理の難易度は???聞かないで下さい…。しかし、一緒に受けた友人は「物理は基本問題でした」と言ってた。さらに彼の追い打ちをかける言葉が…。「多分満点の人いますよ。簡単すぎるし…。」だってさ!しかし続いた彼の言葉
「自分は楽観的にはものを考えない。落ちたときがショックだから…。」で納得。ほっとした。(120分で80問)滋賀医大学士編入試験・その4(総括編)(H12・7・26)
「英語」、「生物、生命科学に関連した化学、物理学」共に難易度は標準的であり、1次で494人から40人に絞られる(12倍!)から、ボーダーラインは2科目平均8割〜9割くらいになるだろう。なにせマークシートで配点がわからないものだから、これくらいしか言いようがない。もし1次を突破したら、2次の報告も書きたいが、それは「神(紙=答案)のみぞ知る」ので分かりません。試験後は、仲間4人で焼き鳥で打ち上げをやった。二次会はカラオケへ…。みんなぶっ壊れていた。そして一日も早く、各自が次のステップに踏み出すことを約して散会。ごくろうさまでした。私の今回の受験はしゃれでした。話の種に受けてみよう、と思ったに過ぎません。しかし、高校生物を越える勉強をしているうちにだんだんとそのおもしろさにはまってしまい、ちょっと最後の方はかなりまじめに勉強しました。勉強期間は約1カ月半です。生物学の奥の深さに魅入られた毎日だった。特に「Essenncial細胞生物学」という本(これはThe Cellという名著のダイジェスト版)はすばらしく、私が生涯忘れ得ぬ書物の一冊となったことは大きな収穫であった。ところで世の中には不思議なことがある。私は滋賀医大の生物の問題とは何故か相性がよい。(じゃあなんで落ちるの??それはねえ生物以外が足をひっぱるから…。) 今年の2月の試験前に、HPに2mの糸という題で細胞1こあたりのDNAの長さを書いていたら、本番で出てしまった。そして今回、6月になぜ同じ両親から同じ子供が産まれないのか?と書いていたら、今回の学士試験に出てしまった。なーんか不思議なこともあるもんだなあ。おまけに試験前3・4日で張ったヤマから関連問題を含めると30問も出た。問題作成者と私の視点が良く似ているのだろうか…。来年はどうだろう???楽しみである。
滋賀医大学士編入試験受験記2001年版(性懲りもなく受けてしまった試験・苦笑)
今日は子ども達の蟯虫検査の日だ。なぜか私に検査せよ、という長女(5才)のお尻にぺたっとシールを貼ってはがして、二つに折って、袋に入れて…と。試験の日の朝に、なんでこうなるの?と思いながら、家を出た。サンダル履きにTシャツ姿で車に乗り込む私…。なんという緊張感のなさ…。まあ、何回も受けてると、こんなもんさ…(笑)。しかし、これにはいささか理由がある。実は五月の下旬に階段から落ちてしまい、左足親指の爪で着地するという離れ業をやってしまったおかげで、長時間、靴を履くとまだ少し痛むのである。車で行くのは縁起担ぎである。というのは私と同い年の滋賀医大の学生さんのF氏は、受験に車で行って合格した、とのことで、まねをしてみたかったのだ。
小学校へ通学する長男を後目に、クラクションで合図をおくりながら、五条通り(国道1号線)へと車を走らせる。思ったほど渋滞もなく、試験開始の1時間以上前に、滋賀医の正門を通過。構内の駐車場に車を止めて、集合場所へ向かった。
こう言っては、何なんだが、実は今回、この試験を受けるつもりがなかったのである。それを某MLの友人二人(歯医者さんと薬剤師さん)が、「試験後に宴会しよう!」などとおっしゃるものだから、これは1人だけ試験も受けずに宴会に参加するのは気が引けるなあ…、と思い、受けることに決めたのが、ほんの数カ月前。
さて、試験室に入って、真っ先に目に入ったのがYさん(女性)。この方は、生物学、化学のスペシャリストで、先日、滋賀医に一緒に過去問の閲覧にいった人。才色兼備である。「おはよう!」とお互いに挨拶を交わした後、それ以外は何も話さず、次はGさんという北海道からお越しになっているはずの方を探した。受験番号は前もって聞いていたので、そこまでいってご挨拶。「京都の中村です。頑張りましょうね!」と互いに励まし、すぐに戻った。試験後の陽気なGさんの様子を考えると、その時はやはり緊張しておられたみたい。まあ、当方、受験動機が試験後の宴会を楽しみにしているのだから、あんまり緊張してない…。 着席してしばらくすると、隣の人が「すみません、鉛筆かしてもらえませんか?」と。なかなかハンサムで好青年っぽい感じの人だ。その人とも少し話してると、1時間目の英語の問題が配られ始めた。
昨年は、マークシートで面食らったが、今年はそのつもりで用意してきたので、安心だ。しかし、昨年の傾向がそのまま今年も再現される保証は何処にもない。でも問題表紙からすこし透けて見える印刷は、紛れもなく昨年と同じ形式。ほっとし た。
試験開始と同時に、まず問題の総量を見た。文法問題が60問と長文が35問。昨年よりも5問減っている。A4版で全部で 20ページは相変わらずのすごい量である。これを90分で全て読 んで答えるのだ。予定では文法問題60問を30分以内で終わらせることになっている。しかし、悲しいかな、37分もかかってしまった。正答率はおそらく9割を越える正確さだと思う。特訓の成果が現れている。しかし、いかんせん、時間をとられ過ぎた。急いで長文に移るが、昨年よりも、というより予想したよりも単語の難易度が上がっている感じで、知らない単語にしょっちゅう出くわす。これはまずい。前後から憶測…、なんて悠長なことをしている時間はないのだ。どんどん飛ばして読んでいき、結局最後の6問はあてずっぽうになってしまった。ばかな!これじゃあ昨年と同じじゃないか。文法問題の精度は上がっているが、あんまり進歩の見られない結果にがっくり…。お昼は、受験仲間数人と食堂で食べた。Yさんはなんと英語の問題を長文からとりかかったらしい。で70分で終わり、20分で文法60問をこなしたとのこと。すごい速さだ…。でもとにかく英語はみんな時間との戦いだったようだ。まあ、和気あいあいと楽しい食事の後、教室へ戻った。
理科は「生物、生命科学に関連した化学、物理学」という科目。ろくに勉強しなかったので、英語があの程度の出来なら、もはやあきらめモード…。滋賀医の生命科学は、どちらかというと知識問題ばかり。深く考える、というより知っていたら分かるし、知らなかったら鉛筆転がすしかない、という性質なので、適当になんとかなるさ、位に考えていた。
形式は昨年と同じ120分で80問。しかし、うちHPの掲示板でのいろんな話から、沢山の関連問題が出たのには少々びっくりした。その話題や問題を提供して下さった方に感謝しながら、「ふ〜ん、ふ〜ん。」なんて鼻歌混じりで問題を解いていく。だって時間が余るのは分かり切っているし、英語のときの緊張を過度に引きずるくらいなら、リラックスした方がまし…、と言うわけだ。しかし、最後の方の10〜15問(くらいだったかな?)は物理関連。これには参った。物理はぜんぜん分かりません。手も足も出ません。でもねえ、昨年と全く同じ問題があったのですよ。普通、そういうことする?本当に全く同じなんですよ。「解糖のおこなわれる場所はどこか」
解糖系で有名なのはクエン酸回路と水素伝達系がミトコンドリアで行われること。でも解糖はあくまで細胞質基質で行われる。これは高1レベルの問題。同じ問題を繰り返すなら、もっと核心的な部分で、且つある程度の難易度で出して欲しかったなあ。あと、多くの問題が昨年の出題と重なっていて、目新しいものは物理くらいだった。それに関しては、昨年より量も質も上回っていた。それが当方のアキレス腱なんだから、玉砕したのも同然である。 残り時間の約30分はひたすら寝ました(笑)。試験後の宴会を楽しみにしていたのに、歯医者さんは諸事情で受けられず、薬剤師さんは試験後は「仕事!」と言ってさっさと新幹線に乗ってしまった。(裏切り者!!でもこのお二人のお誘いのおかげで今回も試験を受けようと決断できた。感謝しなくちゃ…。)また、偶然にも、もうひとりお誘いしていた滋賀医の方は、学外ポリクリの当直に当たってしまい、飲み会不参加とのこと。で、車で行っていた私は、Gさんと一緒に京都まで車で帰った。というのもGさんは京都駅前のホテルに宿泊しておられたからである。
帰宅後、靴を履いて、シャツをちゃんとズボンに入れて行こうとする私に家内が、
「試験はサンダル履きで、シャツはだら〜っと出したままで行くのに、飲みに行くのになんでそんなちゃんとした格好をするの?反対じゃない?することが。」と。ごもっともです。反省。
試験後の宴会は、当方の予定も一度はふさがってしまったの だが、再び時間がとれることになり、Gさんともう1人を交えての宴会とあいなった。しかしこれがまたまた素晴らしい出会いであった。北海道からお越しになっていたGさんは、パラメディカルの立場で私と動機付けが大変似ており、共感できる部分がたくさんあった。あまりに意気投合してしまい、カラオケの梯子までやってしまった。(そんなの初めて!)さらにこのGさん、アメリカのニューヨーク州立大学と、もうひとつなんだったかの学士をもっておられるというお人。カラオケでは、その美しい発音に、「さっすが〜。」と感心。トーフル600点突破のお二人に挟まれ、堂々とビリージョエルなんぞを歌ってしまった。で、この時初めて聞いたのだが、もう1人の人もアメリカ在住歴があるということで、その人の英語力も「やっぱりね。なるほどね。」と合点がいった次第。